柳川明物語

柳川明物語 story02

アルバイトとレースの日々

NSRに乗る柳川

 柳川の高校3年生の記憶はバイトとレースしかない。家族の応援も得てローンを組んでバイクを購入した。でも、それだけではレースは出来ない。転戦費、タイヤ代、ガソリン代、もちろん、転倒すればパーツ代がかかる。学校のある日は学校帰りにガソリンスタンド、夜は焼鳥屋。レースのない休日や学校が休みの平日はコンクリート工場で朝の5時に起きて夜中まで働いた。ここは働いた分だけ日払いでお金がもらえた。柳川にとって、この現金収入はありがたかったが、科学薬品を使う仕事で手の皮は剥けボロボロだった。自分のものではないような醜い手を見つめながら、柳川は闘志を奮い立たせレースに立ち向かった。だが、働いても、働いても資金が足りることはなく、いつもアルバイトに追われる日々が続いた。
ロードレースは、レース初心者のノービス、その上のジュニア、そして国際A級が戦う日本最高峰全日本選手権があった。そして世界中の国を舞台に戦う世界選手権があり、巨大なピラミッドの頂は遠く険しい道の果てにあった。レースブームの真只中を駆け抜けた柳川と同世代のライダーたちの中から全日本に辿り着くライダーはほんの一握り、ましてやワークスライダーになり、海外参戦するなど、絵空事、夢物語だった。それでも、柳川は信じた。それは、巨額の契約金を得るプロになるというサクセスストリーとは、ちょっと違う。大好きなバイクに乗り、走り続けること、お金の心配をしなくてもレースが出来ることが柳川の願いだった。その一途さは、その夢を現実のものに変える力を秘めていた。

ライバルは宇川徹、共に鈴鹿4時間耐久優勝

1994年鈴鹿4時間耐久

 高校を卒業してもアルバイトとレースの日々は変らなかった。柳川が所属していたチーム高武には、チーム員が5~60人はいた。そこにも想像を絶する戦いがあった。柳川クラスのライダーはゴロゴロいたのだ。腕に自信のあった柳川にとって、この事実は衝撃でもあった。だが、ここで自身をアピールすることでしかチャンスはこない。まず、第一の難関は、栄誉ある鈴鹿4時間耐久(4耐)ライダーに選抜されることだった。4耐はレースの甲子園と呼ばれ、ライダーの登竜門として存在していた。チーム員の中でも一際目立っていたのが中学生ながらバイク留学している宇川徹(後のホンダワークスライダーとして鈴鹿8時間耐久、世界GPで活躍する)がいた。ポケットバイク出身の宇川は、柳川が感心するほどバイクの扱いにたけていた。それに引き換え、柳川はブレーキの使い方もクラッチがあることさえもわかっていないのではないかと言いたいようなセオリーを無視した乗り方で、あるのは勢いだけだった。めちゃくちゃなライディングではあったが、スピードに関する感覚だけは誰の目にも明らかで、あんな乗り方で、なんでタイムが出るのか不思議がられることになる。根は真面目で研究熱心な柳川は、驚くほどの速さでレースのノウハウを吸収して行った。
チーム員の中では抜け出た感のある柳川だったが、宇川の後塵を浴び、なかなか勝てなかった。それでも、宇川と10秒あった差がテールに食いつくようになる。そして、宇川が転倒した鈴鹿サンデーレースで遂に初優勝。宇川のいないレースは柳川の独壇場となった。宇川が復帰し柳川と組んで4耐に出ることに文句を言うものはなかった。90年4耐、全国の強豪チームからえりすぐりのライダーが選抜され鈴鹿に集う。鈴鹿を走りなれているライダーたちのアドバンテージは大きく、メーカーのてこ入れがあるチームには手厚いサポートがある。宇川/柳川組は様々なハンデを乗り越え見事勝利するのだ。
日本最大のバイクイベント鈴鹿8時間耐久(8耐)の前日に開催される4耐は、10万人を超える大観衆を前に行われ、勝者となった柳川は賞賛の声に戸惑い照れながら表彰台の真ん中に宇川と立った。たくさんの報道陣のカメラのフラッシュに照らされ、祝福の声に包まれた。暑くて湿った夏の風が柳川と宇川の頬を撫でた。何もかもが、ふたりをやさしく包んでいた。だが、4耐で勝ったからといって、すぐにプロになれるわけではなかった。夢の扉をこじ開け入り口にたったに過ぎない。

TTF-1レースに挑戦

TTF-1レースに挑戦

 90年4耐制覇し地方選手権3クラスチャンピオンに輝いた柳川は、91年特別昇格で全日本ロードレースTTF-1に挑戦を開始する。チームには大きなスポンサーもつき、注目度はかなりのものだった。慣れない大排気量マシンに悪戦苦闘しながらも、柳川は懸命にワンシーズンを戦い続けた。未熟さもあり、結果として残ったものはなかったが、全日本参戦できた喜びは大きく充実感で胸はいっぱいだった。叶わないライバルの存在も、未知のコースも、柳川にとっては新鮮で魅力に満ちたものだった。そこに自分がいるだけで、胸がいっぱいだった。サーキットを疾走する爽快感は、何にも変えがたく、タイムを更新できたときの充実感は、自分を大きく感じさせてくれた。
だが、資金は更にかかるようになり、すでに、家族のサポートも柳川のアルバイトでも追いつかなくなっていた。残るのは借金だけという現実の前に諦めだけがあった。柳川は家族への負担が心苦しく、自分の夢のために家族を犠牲にして走ることは出来ないと決断していた。それでもバイクから離れることも考えられず、また、資金のさほどかからないミニバイクレースに戻ろう。趣味としてバイクを楽しめばいいのだと心に決めた。不思議と後悔の気持ちはなかった。やるだけやった。自分で出来る限りのことはやったのだと思えたからだ。
柳川は当時を振り返り「あの時の苦労がハングリー精神を育ててくれたと思う。人並みに年頃で、女の子にもファッションにも興味がなかったわけではないけど、どんなものより、バイクが一番だった。そのためなら、なんでも我慢が出来たし、寝食忘れて打ち込むものがあった自分は幸せだったんじゃないかなと思う」と言う。
だが、柳川の才能は、誰の目にも明らかだった。全日本1年目ながら、物怖じしない大胆で攻撃的なレース運び。柔軟性の高いライディングフォームは美しく、目で追わずにはいられないものだった。そんな柳川にスズキワークスから声がかかる。レースを諦めていた柳川にとって、それは、出来すぎた物語のように実感のないものだった。夢心地で「はい」と返事をした。契約条件を確かめるような才覚はなかった。ただただ、全日本で、再びレースが出来る喜びだけが、心を占めていた。

遂に念願のプロライダーに

遂に念願のプロライダーに

 92年、柳川は遂に夢を叶え契約金をもらうプロライダーとしてスタートを切るのだ。夢だけはあったが、財布は軽く、スズキ本社のある浜松へ九州から向かうのも夜行バスだった。「きっと、スタッフが駅まで迎えに来るだろうからと、名古屋から浜松までは新幹線に乗れ」と父親が、そっとお金を握らせてくれた。新幹線から精一杯にかっこをつけて柳川は浜松の駅に降り立った。契約金が払われるまでは部屋を借りるお金もなく、無理やり頼み込んで寮に転がりこみ、プロライダーとしてのスタートを切った。
テストコースで走り始めた頃の忘れられない思い出がある。激しく転倒した柳川はバイクを大破させてしまう。傷心で戻った柳川にメカニックが「大丈夫か?」と声をかけた。「大丈夫だけどバイクを壊してしまい、すみません」と消え入るような声で謝った。すると「バイクはいくらでも直せるけど、お前の身体は直せないから。身体が大丈夫なら、それでいい」と…。その言葉を聞き、柳川はあふれる涙を止めることが出来なかった。自分のことより、バイクが壊れることが、経済的な問題として立ちはだかっていた。何かが壊れるたびに家族への申し訳ない思いと、また、働かなければならないと追い詰められていたプライベートの自分から、速く走ることを求められるファクトリーライダーとなったことを強く自覚した瞬間だった。柳川は、どんな時も手を緩めることなく、最速を目指した。どんな状況でも、どんなバイクでもだ。それがプロの証だと信じた。
柳川はレーシングマシンの最高峰である500に乗り世界GPに参戦する夢を追いかけながら時間を過ごした。参戦していたのはTT-F1、勝利へまっしぐら、猪突猛進、暴れるマシンをロディオのように乗りこなす柳川の派手なレースは、転倒も多かったがファンの心をがっちりと掴みトップライダーへと駆け上がった。柳川のライダー人生は順風満帆に見えた。だが、94年から500参戦が決まっていながら、93年を最後に全日本から500のクラスが消えることになり柳川は目標を失う。レギュレーションという壁は、どんなにあがいても乗り越えることは出来なかった。94年から全日本最高峰クラスはスーパーバイク(SB)と移行、柳川はSB参戦するがランキング10位と沈む。このままで終わりたくない思いが柳川の中でくすぶるようになる。

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