KAWASAKI DIRT CHRONICLES

volume12 モトクロス界の裾野を広げるライダー育成組織チームグリーンの青春 / カワサキがKXシリーズの販売台数を伸ばし、「ライムグリーン旋風」と呼ばれるブームを巻き起こした'80年代。その秘密はチームグリーンの活躍にあった。

販売会社が設立したモトクロスチーム

 サインエリアに鬼がいた。大声でライダーを叱咤激励する形相が、身内からも他社からも恐れられていた。誰が呼んだか、緑鬼…。ライムグリーンの運動着と白いハンチング帽が、鬼のトレードマークだった。1982年に誕生したチームグリーンの監督、平井稔男(当時:カワサキオートバイ販売 販売推進部 安全運転推進課 課長)は、強烈な個性で若いモトクロスチームを牽引していく。

平井稔男のレースを思う気持ちは、76歳になった今でも留まるところを知らない。

平井稔男のレースを思う気持ちは、76歳になった今でも留まるところを知らない。 自ら「切れば緑の血が出る」と豪語する程、こよなくカワサキを愛する男である。

 平井は'70年代から、杉尾良文や竹沢正治を率いて全日本モトクロスに参戦してきた。'76年には竹沢がセニア(現国際A級)250チャンピオンを獲得。後にカワサキが台頭する下地は整いつつあった。
「そんな折にアメリカでチームグリーンを成功させたピート(堤利雄/当時:KMC Technical Service Dept. Manager)に、日本でもやらんかとそそのかされまして、若いライダーを育てる組織を作ることになったのです。ファクトリー活動を行なう川崎重工業のチームカワサキとは別に、カワサキオートバイ販売がチームを持つためには、大義名分が必要でした。そこで私は、広告宣伝、販売促進、人材育成、技術革新、顧客満足、士気高揚などを謳った企画書を通し、チームグリーンの創立に漕ぎ着けたのです」
 平井が「大義名分」と口にするとき、どこかに大好きなレースをやらせてもらうという後ろめたさに似た感情が見え隠れする。だが、平井が掲げた目標は大義名分にとどまらず、ことごとく実現しカワサキの躍進に貢献することになったのだ。すなわち、全日本モトクロス選手権におけるチームグリーンの活躍によって、カワサキのブランドイメージが向上し、KXシリーズの販売台数が増加し、ライダー層が厚くなり、レースで得たデータが開発にフィードバックされ、カワサキファンとカワサキで働く従業員の意気も大いに上がった。

才能に磨きをかける特訓

「1年目は苦戦しました。中深迫正、菅原義広、岡山照一の3人と、バイク6台を2トン車に積んで出かけたのですが、なかなか予選を通らない。もっと人材を強化せねばと痛感し、全国の特約店からライダーを募ることになりました。夏休みに10日間、冬休みに7日間、明石に20~30人を集めて合宿を行ない、素質のあるライダーを見出していったのです。選考にあたっては、学校の通信簿の提出を義務づけました。勉強ができないヤツは速くなれない。私の持論ですが、間違ってはいなかったはずです」
 特訓会とも選考会とも呼ばれた合宿を通じて、チームグリーンは若い才能を発掘し、各々のポテンシャルを伸ばしていった。
「立派な成績を残せるようになったのは、2年目からでした。今でも鮮明に覚えているのは、'83年の全日本の四国大会。レース直前にノービス(国内B級)ライセンスを取得したばかりの調所伸一が、125で見事デビューウィンを決めてくれたのです。しかも鈴木南平との1-2フィニッシュで…。松山オートテックの丘の上から、2台のKXが競り合いながら飛び出してくるシーンは感動的でした。このレースがきっかけで常勝ペースをつかみ、チームグリーンは注目される存在になったのです。勝つたびに雑誌に取り上げられるようになり、それがカワサキにとって宣伝広告、我々チームにとってはモチベーションを高めてくれる材料になりました。こうした好循環によって、翌'84年には調所がジュニア(国内A級)250チャンピオン、菅原が国際B級125チャンピオンになりました」

ライディングスポーツ誌1985年8月号に掲載された記事。平井率いるチームグリーンの活躍を、各誌こぞって取り上げていた。

ライディングスポーツ誌1985年8月号に掲載された記事。平井率いるチームグリーンの活躍を、各誌こぞって取り上げていた。

 メーカー主導によるファクトリーチームとショップを母体としたクラブチームの隙間をカバーするポジショニングは、アメリカで確立したチームグリーンと同様だった。だが、日本では国土や文化の違いから、独特の体育会系的なスタイルに則って成長する。
「強さの秘密は何かと聞かれたものですが、ひとことで言えば練習量でしょう。ウチの所属ライダーには、明石の寮に住み込む子と、学業を優先して自宅に残る子がいましたが、明石に来たらもう平井道場の生徒です。それはもう、愛情を込めて可愛がりましたよ。朝5時起きでランニング、朝食後に加西の青野ヶ原のコースへ移動して練習。だいたい朝8時から夕方4時までは、バイクに乗る日常です。ノービスでもジュニアでも、1ヒート30分から40分走らせました。それを1日4ヒートやりましたか…。この練習は時に市販車の耐久テストを兼ねておりまして、一石二鳥だったわけです。これだけ走っていると、ライダーの尻がすりむけて座っていられなくなるので、みんな自然といい感じに中腰で走るようになる。それを見ながら、よしよしとほくそ笑んだものでした」

多くのチャンピオンを育てたチームグリーン

 モトクロス界の裾野を広げることを目的としたチームグリーンは、ノービス2人、ジュニア2人、国際B級2人という編成だったので、毎年ルーキーがノービスに加わり、国際B級がA級に昇格すると卒業していくパターンを基本としていた。

'92年にカワサキは、国際A級・B級の全クラス制覇を成し遂げた。(写真左よりエディ・ウォーレン、請川意次、田澤豊晃、佐々木裕介)

'92年にカワサキは、国際A級・B級の全クラス制覇を成し遂げた(写真左よりエディ・ウォーレン、請川意次、田澤豊晃、佐々木裕介)。 エディ以外は全てチームグリーンのライダーで、田沢は後にチームグリーンの監督を務める事となる。

「クラスごとに2人ずつというのが、よかったと思います。ライバル同士が競い合うことで、お互いが成長していったからです。一例を挙げれば、長沼朝之と花田茂樹という同期生がいまして、'85年には長沼がジュニア125、花田がジュニア250チャンピオン。'86年には花田が国際B級ダブルチャンピオンになりましたが、2人は本当によく競り合ったものです。監督の仕事としては、とにかく2人がぶつからないように離れて走れと指示するだけでした。性格は対照的で、長沼はおだてるとどこまでも行くタイプ、花田は怒らせると奮起するタイプでした。彼らは後にファクトリーチームに入ることになりますが、そういった就職先というか昇進のレールを敷いて、追い出すまでが私の仕事でした。その後もずいぶんチャンピオンを育てましたし、1人1人に愛着があるのですが、実は1年目の中深迫が一番可愛かった気がします。やっぱり最初は苦労しましたし、予選通過や初勝利の喜びを身にしみて感じたのは、中深迫のときでしたから」
 若い才能を育ててファクトリーチームへ送り込む、という当初のチームグリーンの使命は、やがて平井の異動とともに変化していく。近年は国際A級のIA2に特化したトップチームという役割も担い、'04年に中村友則、'07年には新井宏彰とチャンピオンを輩出してきた。
「日本一になりたい。そしていつかは世界一になりたいというのが、監督の夢でした。カワサキを退職した後も、その思いは変わりません」
 今でもチームグリーンの成績に一喜一憂する鬼の目には、優しい光が宿っていた。

(取材/文: 浦島信太郎)

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