当時、ウォーレンやマタセビッチの
良き話し相手であった横山真一郎
カワサキの全日本モトクロス参戦史の中に、アメリカンライダーを起用した時期がある。'92~'94年のエディ・ウォーレン、'95~'97年のジェフ・マタセビッチ。抜擢された助っ人が活躍した6年間で、獲得したチャンピオンシップは4個。カワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し、圧倒的なプレゼンスを誇った黄金期だった。
「'89年の岡部篤史を最後にタイトルから遠ざかっていたので、常勝カワサキとしては『今年は取りに行くぞ!』という仕掛けが必要な時期でした」
横山真一郎(当時:CP事業本部 技術総括部 プロジェクト室 プロジェクト3班 車体設計担当係員)は、その頃のチーム事情をこのように説き明かす。
「外国人ライダーの起用には、チャンピオン獲得という使命以外にも目的がありました。当時からレース活動は量産車の先行開発の場という位置付けでしたが、日本人より速いペースで走れるアメリカンライダーを介せば、もっと高い次元での開発が行える。そしてマシン開発だけでなく、日本のモトクロス界に刺激を与え、全体のレベルアップにも貢献できる。そんな理想を掲げていたのですが、ただトップアメリカンを呼んでも、日本のレベルとは差がありすぎるという懸念がありました。ぶっちぎりで勝ちまくっては意味がない。程よく競り合いながら勝ち、日本人から見ても手が届くぐらいのライダーが理想でした。ちょうどいいのは誰か。この人選が難しかった部分でした」
抜擢されたウォーレンには、'85年にAMAスーパークロス125イーストチャンピオンになった実績と、KMC(カワサキ・モータース・コーポレーションU.S.A.)の開発ライダーを務めた経験があり、'91年には福岡で開催されたパンパシフィック・スーパークロスに来日した縁もあった。
1993年から2001年の間、
KRTの監督としてチームを率いた河野孝
'92年にウォーレンのメカニックを担当した後、'93年からKRT(カワサキレーシングチーム)の監督を務めた河野孝の回想…。
「ウォーレンは最適任者だったと思います。小柄なので力でマシンを押さえ込む乗り方ではなく、スピード的にも他のライダーが何とか付いて行けたので、日本人の手本としてもちょうど良かった。特にコースが荒れるヒート2になると、テクニックを発揮しました。1速高いギアを多用するためエンジンの回転が低めなので、ギャップで跳ねずにスムーズに走る。岡部あたりはウォーレンの走りを冷静に観察して、テクニックをずいぶん学んでいたようです」
初年度の'92年、KX250SRを走らせて24ヒート中10勝を挙げたウォーレンは、カワサキに3年ぶりのチャンピオンシップをもたらした。
「願ったり叶ったりのシーズンでしたが、メカニックとしては葛藤がありました。ウォーレンには勝って欲しいけれど、花田茂樹(当時:KRT所属)ら若手ライダーも伸ばしていかなければならない。ウォーレンのセッティングを出した後に、花田のメカニックに助言したりという苦労もありましたが、第2戦九州のヒート2でウォーレン、岡部、花田が1-2-3フィニッシュを達成するなど、うれしい戦果もありました。ただ、アメリカンを採用した是非とは別に、個人的には日本人に勝たせたいとずっと思っていました。後にマタセビッチがチームに来てからも、この気持ちは変わりませんでした」
ウォーレンが全日本チャンピオンに輝いた翌年、
カワサキはアルミ製ペリメターフレームを採用した
KX250SRを実戦に送り込む
カワサキは'93年、ウォーレンの開発能力を見込んで、アルミフレーム車を投入する。
「我々は常に量産を前提としてファクトリーマシンを開発してきましたが、アルミ製ペリメターフレームを採用した'93年のKX250SRだけは例外でした。技術的には砂型の鋳造パーツを多用するなどトライをしましたし、収集したデータもかなりありました。アルミフレームは重量面では有利でしたが、当時の状況ではコスト的に合わず、結果的に量産は見送られたのです。特性としては一長一短で、アルミ特有の硬さを解消するのに苦労しましたが、この経験は後々'06年型KX250F・KX450Fにアルミフレームを初採用する際に役立っています」
'93年はスズキが送り込んだ対抗馬、ロン・ティシュナーに敗れ、翌'94年も連覇を許した。カワサキにはウォーレンに代わる次のライダーが必要になった。
「候補としてはマイケル・クレイグとジョン・ダウドも挙がっていましたが、最終的にマタセビッチを選びました。'88~'89年AMAスーパークロス125ウエストチャンピオンという実績はウォーレンに似ていましたが、マタセビッチはアウトドアではそれほど好成績を残していないので、ティシュナーには勝ちたいけれど勝ちすぎてはいけないという我々の要求に、ちょうど上手くマッチしそうだったからです。明石の社宅住まいだったウォーレンとは違って、マタセビッチはほぼ毎戦アメリカから通う参戦スタイルでしたが、'95~'97年と見事に3連覇を達成してくれました」
全日本に参戦した3シーズン全てで
チャンピオンを獲得したマタセビッチ
対照的な2人のアメリカンと苦楽を共有した河野は、今でも彼らのプロフェッショナリズムが忘れられないと言う。
「ウォーレンもマタセビッチも、ゴールした後はしばらく話もできないほど呼吸が乱れ、ぜいぜいと肩で息をしていたものです。それに比べ、日本人はみんな割と平然としているし、ヘルメットを脱いですぐメカニックと会話したり、次のレースに並んでいるチームメイトに駆け寄って、ラインを教えたりする余裕がある。日本人は限界まで無理していないし、一方アメリカンたちは倒れる寸前まで攻めているんだなと、レースに対する姿勢の違いを痛感しました。みなさんはアメリカンなら全日本で勝てて当然だと思われるかもしれませんが、彼らがどれほど真剣に取り組んでいたのか、再認識してもいいのではないでしょうか。優等生だったウォーレンでも、負けた悔しさからトランスポーターの中でヘルメットを叩きつけていたことがありました。マタセビッチの場合は、2位のトロフィーをゴミ箱に投げ捨てていました。行儀は決してよくありませんが、彼らはとことん本気だったのです」
エポックを画したアメリカンの起用に、カワサキは6年目で一区切りをつけた。勝利と開発、そしてモトクロス界の活性化。当初の目的を果たしたKRTは以降、全日本モトクロスの将来を若い日本人ライダーに託していった。
(取材/文: 浦島信太郎)

